備忘録

しわ無し脳みそのために...

国鉄中央本線 いのはなトンネル列車銃撃空襲の慰霊碑(遠征編)

事件編はこちら

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遠征について

ネットで検索すると、この銃撃事件の情報はそこそこみつかるが、しかし慰霊碑までの具体的な行き方の情報がほとんどなく(後になってYoutubeにあることがわかった)、ストリートビューも途中までしかない。それならばオヤジの供養も兼ねて、代わりに自分で行って見ようと思った。

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大垂水峠の帰りだったので、甲州街道上り線で高尾山口を過ぎてしばらく行った「西浅川交差点」を左に曲がり、旧甲州街道に入る。店舗などもなく、急に静かな街並みになる。この辺は裏高尾町というらしい。5分も走ると、乗用車のすれ違いですら難しいほど道幅が狭いところが所々ある。京王バス高尾駅北口発小仏行き(土日のみ高尾山口小仏行きもある?)がこの旧道を走っているが、運転士は大変だ。高尾駅北口からこのバス停まで2.35キロ、歩くと3~40分かかるのでバスのほうがよさそうだ。昔の小仏の関所前を過ぎると梅が有名なようで、この旧道付近には梅林があちこちにある。

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静まりかえった住宅地なので、バイクのスピードもぐっと落としそっと進む。もう少し進むと、正面に見上げるように圏央道の高架橋が見えてきた。その少し手前の上り線側に京王バス「蛇滝口」バス停 があり、ここに慰霊碑入口の案内の石碑がある。

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奥の緑のフェンスの向こうが小さな「から沢」で右側の線路まで続いていて、そこにも乗客が逃げ込んだそうだ。左の旧甲州街道をくぐると、小仏川につながる。

 

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バイクを止めて歩いて行ってみると、案内板や慰霊会出版の本のパンフレットなどがあり、一部もらって来た。それらしき方向に進むと道が別れており、矢印が消えかけた看板に従って黄色の矢印方向へ進む。

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まるで他人の家の裏庭に勝手に入っていくようで、ちょっと気後れする。畑横の獣みちのような道を進むと、すぐ向こうを中央本線が走っているのが見える。

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大きく左に曲がり少し先の右側に慰霊碑があった。上の写真で写っているのは、圏央道の高架橋。位置的には、中央本線下り線の南側の日当たりのよい斜面となる。毎年8/5に慰霊祭が開かれるそうだ。慰霊碑に個人名や年齢が刻まれているが、被害にあった人々の中にはオヤジと同じくらいの当時十代の人々もいた。オヤジの名代として、亡くなった方々のご冥福を祈った。合掌。オヤジも喜んでくれただろうか。

 

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事件当時の鉄道は単線だったため、1950年(昭和25年)地元青年団によって「列車戦没者供養塔」が現在の上り線側の線路の北側に建てられた。しかし線路脇で危険だったため、後に現在の下り線の南の位置に昭和61年に地主の厚意で移転したらしい。また現在の慰霊碑は、平成4年に完成したそうだ。

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今歩いてきた獣みちを少し戻り、先ほどの二股を今度は紫の矢印のほうへ進むとすぐに新井踏切にぶつかる(地元は荒井地区と書くが、国鉄が当て字をしたらしい)。写真の正面上に写っているのは中央自動車道の高架橋。幅1.8mの人専用の遮断機のある小さな踏切だ。手前に土地所有の境界を表す「工」マーク入りの境界杭がある。このマークは以前国鉄を管轄していた「工部省」の工を表し国鉄時代の杭らしいがJRになっても一部で使われた場合もあるようだ。赤ペンキがまだきれいで、大正、昭和初期のものとは思えない。

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新井踏切から現在の複線化されたトンネルをみると、南側の下りトンネルは新しいコンクリート製で、また北側の上りトンネルは古いレンガ造りで、事件があったのは慰霊碑の反対側にある上り線(当時は単線)だったことがわかる。レンガには銃撃の跡が残っているとのことだが、望遠レンズでもないことには踏切からはとてもわからない。トンネルの奥にはすぐ出口が見えるので、あまり長くない(160m)ことがわかる。トンネル出口から新井踏切までが104m。昭和の国鉄の客車長は20mだったらしいので、トンネルに6.5両分が入れなかったとすると約130m。すると列車の最後部は、踏切と慰霊碑の中間あたりだったと思われる。

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踏切上り線側から見た下り線の様子。矢印のあたりが、慰霊碑。

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新井踏切を渡り中央本線上り線を北側に越えると、比較的新しく広い道路がある。ここへは、旧甲州街道を少し戻ったところにある「みどり幼児園(ようじえん)」横の脇道を入れば来ることができる。おそらく高速道路工事の際に作業用に作った道のようで、新井踏切の先の中央自動車道下でフェンスが施錠されそれ以降は入れない。今は付近の農家、関係者、登山客以外ほとんど誰も通っていない。もし車で慰霊に来てみようというなら、こちら側なら道幅が十分広く路上に駐車しても迷惑にはならないだろう。旧甲州街道には付近に駐車場はなく、また道幅が狭くバスも通る。路上駐車は地域住民の迷惑になるので、やめた方がよい。北側の道に車を止め、上り線側から踏切を渡り、一旦下ってから左へ曲がって慰霊碑に進むのがよい。みどり幼児園先の線路をくぐるガードは狭くてビビるが、二トン車くらいまでなら入れる。また踏切北側(中央自動車道高架橋の下)に小さな観音像が立っている。石碑を読むと、どうも交通事故等で亡くなった子供の慰霊碑のようだった。こちらにも合掌。

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同日にあったこと

なお、いのはなトンネル銃撃事件と同じ日(1945年(昭和20年)8月5月)の正午ごろ、神奈川県の国鉄東海道本線二宮駅にもP51が飛来し、駅舎とその周辺を銃撃し5名の死者をだした。小笠原諸島のさらに270キロ先の硫黄島から片道約1,200キロを4時間ほどかけて飛んできた三十機程度のP51が、同じ日に東海道本線国府津駅鴨宮駅間、二宮駅小田原駅早川駅御殿場線下曽我駅、松田駅などに機銃掃射を加えて行った。この一部または同じP51が、いのはなトンネルにも来たのではないか。

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P51は航続距離が非常に長い事を日本は知らず、近海まできた航空母艦から発艦した艦載機だと思っていたようだ。ところが実際は硫黄島から往復2,400キロも飛んできたわけで、最大時3,000キロの航続距離を誇った。

さらにP51は高速な戦闘機で、最高のコンディションでは最高時速680キロを出したことになっているが、遠距離の硫黄島から飛来した際には燃料の大型増加タンクを付けたままと思われるので、最高速度は380キロ程度だったらしい。しかし巡航速度が時速300キロだとしても、八王子と小田原間は遠いように思えても実は43キロしかなく、ほんのわずか9分程度で到達してしまう。同じ飛行機だった可能性も十分ある。

二宮駅への銃撃については小説「ガラスのうさぎ」が取り上げており、主人公の少女(著者)の父が実際に二宮駅の銃撃で亡くなったそうで、映像化もされている。

終戦まであと二週間足らずなのにと思うとやりきれないが、小田原は8/7、13にも、また終戦の日の8/15未明にも小田原、伊勢崎、熊谷にも無差別空襲があったそうだ。戦争とはそんなものだ、という言葉では片付けられない。犠牲者の皆さんのご冥福を祈りつつ、合掌。

 

本ページを記述するにあたり、数々のWebページ、また下記の本を参考にさせていただきました。御礼申し上げます。この本は慰霊碑入口の所にあったパンフレットで紹介されていた書籍です。少々薄くて、当初は慰霊会への寄付のつもりで一冊購入しました。ところが貴重な情報が満載で、後世に残る記録だろうと思います。

www.amazon.co.jp

 

Youtubeの動画では、以下をご紹介いたします。「湯の花トンネル列車銃撃空襲」第40回 多摩探検隊 <制作・著作>中央大学FLP松野良一ゼミ 


www.youtube.com

 

最後に八王子のメインストリート甲州街道を走っていたら、三菱UFJ銀行の隣に荒井呉服店がビルを建てて10/28に新装開店していた。今は姪っ子さんが代表をしている地元でも評判のいい立派な会社だそうで、きれいな店頭には胡蝶蘭が50個ぐらい並んでいてすごい!と思った。しかし、こちらも八王子の大空襲ではご苦労をされたようだ。