備忘録

しわ無し脳みそのために...

国鉄中央本線 いのはなトンネル列車銃撃空襲の慰霊碑(事件編)

いろいろあって、ブログをアップデートする気になれなかったが、また気が向いた時にでもやってみよう。

今は亡きオヤジが高校の同窓会で知ったらしいのだが、終戦間際にあった以下の事件の被害者の中に同窓会の関係者がいたそうだ。自分はたまたま中島飛行機、武蔵野製作所について調べたことがあり、その際に関連するこの事件の概要だけは知っていた。その話をしたら当時すでに寝たきりだったオヤジは喜んでくれ、慰霊碑にお参りに行きたそうだった。


最近、ふとその事を思いだしネットで調べた所、慰霊碑の大体の場所がわかった。コロナの緊急事態も開けたことだし、バイクで大垂水峠へ行く道すがら、オヤジの供養を兼ねて代わりにお参りをしてこようかなと思った。

 

事件の背景
戦争も末期になるとサイパン硫黄島に米軍基地ができたため、東京には空襲が頻繁に行われるようになっていた。現在の武蔵野市の都立武蔵野中央公園、NTT武蔵野研究開発センタ、武蔵野市役所およびその周辺には、当時は中島飛行機(現在のスバル)の、従来東にあった陸軍向けの武蔵野製作所と西にあった海軍向けの多摩製作所が合併してできた東洋一巨大な軍用機用エンジン工場の武蔵製作所があり、さらにその関連会社、施設が多数あった。米軍は工場破壊のため周辺に空襲を9回も繰り返し、武蔵野市と現在の西東京市に多大な被害をおよぼした。付近からは2000年代になっても、大型の1トン爆弾の不発弾が出てくる程である。


そのため軍は八王子の浅川(現在の高尾)の山中に総延長10キロにもおよぶ巨大な格子状の防空壕を掘り、浅川工場として疎開させようとした。これは現在でも見学ができる。しかし航空機用エンジン製作用の精密な工作機械は、湿気や漏水の激しい防空壕ではまともに動かず、エンジンはほとんど生産できなかったらしい。


それまで八王子は大きな空襲を受けていなかったが、中央線、横浜線八高線と鉄道が交差しており、また中島飛行機の関係者や疎開してきた人が多くなったためか、終戦まで後わずか13日の1945年(昭和20年)8月2月未明、米軍による大空襲を受けた。約2時間にわたる空襲で合計1600トンの焼夷弾が投下され、八王子市街地の約80%が焦土となり、写真をみると広島と見紛うような惨状であったそうだ。現在でも八王子駅高尾駅ホームの鉄柱には、当時の機銃掃射の後が残っているそうだ。

 

事件の詳細
その3日後の8月5日、国鉄中央本線はやっと復旧し、ED16-7という電気機関車にけん引された8両編成の新宿発、長野行きの419列車が新宿を定刻の10時10分から20分程遅れた10時半頃に発車した。下記写真は、青梅鉄道公園に展示されているED16-1。

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八王子の空襲で3日も不通だった中央本線がやっと復旧したため、列車は八王子に来ると乗客は窓から乗り込むほどの超満員状態となった。八王子に到着する前に空襲警報が発令されていたが、11時半頃に鈴なり状態の列車は隣の浅川駅に向かった。浅川駅(現在の高尾駅)には40分程遅れ正午頃についた。まだ空襲警報が発令されいたためか駅で15分ほど待たされたが、警報解除前の12時15分ごろに浅川駅を発車した。見切り発車した理由は不明。

いのはなトンネルまでは平均で約20‰(パーミル 1,000m進んで20m登る、実際には浅川駅から2,200メートル進んで45m登る)という列車にとっては急なこう配で、当時の電気機関車、および鈴なりの満員8両編成の客車は、警報が解除されていない中、小仏峠に向けた急坂をノロノロと進んで行ったのであろう。


通常、空襲というと爆撃機による爆撃が普通で、写真の航続距離の長い米軍戦闘機P51マスタングは迎撃に向かってきた日本軍機に対する護衛のために同行していた。しかし終戦間際になると日本軍は組織的な迎撃が不可能になり、米軍戦闘機だけによる工場、鉄道、家屋、自動車、漁船、非戦闘員までもを機銃で狙う空襲が始まった。この時も、硫黄島からP51戦闘機が4機が飛来し、いのはなとんねるに近づいた419列車を機銃とロケット弾で攻撃し、悲劇が始まった。

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いのはなトンネルは約160mと比較的短い。さらに機関車はトンネルの中で停止し、客車は二両目の途中までしか入れなかった。その理由は、当時貴重品であった機関車を温存したためという説がある。その根拠は、運転士が急ブレーキをかけたとの情報があるため。通常ならトンネルの奥まで逃げ込んでできる限り攻撃から列車全体を隠すと思うのだが、なぜ二両目の半分までという中途半端な場所で自ら列車を止めたのか?そうしろという指示が、事前に上からあったのか?パニックになって、とっさの判断を誤ったのか?

 

いずれにせよ二両目の後半から八両目までの客車はトンネルの外で止まり、P51のロケット弾は外れたが客車の多くの部分は機銃掃射を繰り返しまともにくらってしまった。乗客は子供から老人まで窓から乗り込んでデッキに溢れる超満員状態だったので、車外に逃げるにも手間取ったのだろう。やっと車外に逃げられた人達は、車両の下、近くの樹木の中、下記写真にある踏切から20mほど西側にある「から沢」等に避難した。写真は、当時はなかった下り線とそのトンネル。

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攻撃は5分間程度だったようだが、特に三両目が最も被害がひどかったらしい。車内は血の海と化し、滑ってまともに歩けず、風が吹くと血の海に波が立つ程の惨状であったという。警察発表で52人(慰霊会発表では60人以上)が死亡、133人が負傷したという。


地元では個人、浅川町警防団、役場など一丸となって救護活動を行った。負傷者や死者は近隣の病院やお寺等に安置したそうだ。なお慰霊碑の入り口にあるバス停・蛇滝口の向かい側にある旧蛇滝茶屋(蛇瀧信仰講中の宿泊休憩所は当時からある)は遺体安置所、遺族の集会所、雨戸を外して犠牲者救助に協力してもらったそうだ。この建物の向こう側が、小仏川となる。

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銃撃事件の後

419列車の最後尾8両目には多くの兵員が乗っていたそうだ。事件直後の救護活動の最中には、地元の人々が傷ついた兵士の救護をしようとすると「一般の人達を先に助けてあげてくれ」といった声が、兵士個人からは聞こえたそうだ。しかし搬送が開始されると「兵士が先だ」という怒鳴り声が聞こえ、兵員が先に軍の車に乗せられていった。一般の負傷者は重傷者や長く地面に寝かされたままの人もおり、「ひどいことをいう」と腹を立てた人もいた。

 

八王子市内は8/2の大空襲でほとんどの家屋が焼失し、銃撃された乗客を手当てできる医療施設はほとんど残っていなかったため、周辺の少しでも近い病院を探しけが人を連れて行った。しかし軍関連の病院へ連れて行くと、軍人以外の手当てを断られたケースが複数あったそうだ。ここにも国民をないがしろにする旧日本軍の体質が表れており、これも日本が戦争に負け多大な犠牲を出した大きな理由の一つであろう。

 

トンネルに逃げ込んだ電気機関車ED16-7は、煙が出たそうだが炎上はしなかった。しかし送電線が切れて動けなくなったため、救援に来たC-58蒸気機関車に牽引されて浅川駅まで戻ったそうだ 。その後修理され1980年頃まで現役だったらしいが現在は廃車され、車番のナンバープレート(事件当時の物でない)だけが 八王子市郷土資料館に保存されているらしい。ただしここは2021年(令和3年)に展示を終了し、八王子駅南口に準備中の歴史・郷土ミュージアムに移転するようだ。プレートの行方は不明。

 

「いのはな」の記述については、元々はトンネルのある山が猪の鼻のように見えたため地元では「猪の鼻山」と呼ばれていた(現在は中央自動車道工事で、山をかなり削ってしまい当時の面影はないそうだ)。しかし1901年に八王子=上野原間に当時の官設鉄道(おそらく逓信省鉄道局時代)としてトンネルが開通された際に、「猪の鼻」を「湯の花」と書き換えてしまったらしい。縁起担ぎなのか、どうも鉄道が地名の漢字を変えることは時々あるようだ(下記のある踏切名も同様)。そのためブレを防ぐためか慰霊会ではひらがなで「いのはな」に統一しているようで、慰霊碑も「いのはな」となっているため、ここでもその表記に従うことにした。

 

なお現在中央本線は上下線が複線化されているが、本事件があった時には現在の上り線側だけの単線であったそうだ。事件があったのは現在の上り線で、レンガ造りの古いトンネルのほう。レンガには銃撃の跡が残っているそうだが、踏切からは遠くてとても見えない。左右に通るのが圏央道、右上に見えるのが中央自動車道

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ちょっと長くなったので、次回の遠征編に続く。

tokyo-it.hatenablog.com